イエスマンを生み出す体育会系の「悪しき風習」 『Voice』 2018年5月号

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https://ironna.jp/article/9716?p=1

 ノルウェーのオリンピック委員会によると、ノルウェーでは子どものあいだでは競争心をあおらないよう指導している。子どもにとってスポーツは楽しいもの、そして友達との関係を良くすることを目的にする。13歳くらいまでは決して勝ち負けや点数の優劣などを意識させず、楽しむことを促す。これこそスポーツが本来あるべき姿なのだ。

ノルウェーでは、スポーツは人生を豊かにするために必要なものを学ぶためにある、という位置づけなのだろうか。

対して日本では「修行」。

では、何のために修行するのかといえば、ほとんどの指導者は答えられないだろうが、簡単に言ってしまえば「日本的なブラック労働環境」に耐えるための忍耐力を培うため、というのが正解だと思う。

そこに儒教的な上下関係が入ってくるからさらにブラックになる。とはいえ、孔子が暴力を容認してまで上下関係にこだわっていたのかというとかなりギモンなのだが・・・。

 体罰のないスポーツ指導について、長年NFL(ナショナル・フットボール・リーグ)や強豪大学のフットボールチームでヘッドコーチを歴任し、ジョージア工科大学で体育局長として全米初のアスリート教育、トータル・パーソン・プログラムを構築したホーマー・ライスは、「褒美や罰でやる気を引き出すことは、短期的に効果を得るかもしれない。しかし、長く効果を求めるなら、選手自身でやる気を引き出す必要がある。自己モチベーション(インサイドアウト)が重要となる」と語っている。

一時広まった「褒めて伸ばす教育法」にも懐疑的な意見がある。褒められるのを目的にするよりも、自分が成長する喜びを体験させる教育法のほうが優れているとかなんとか。まあなんとなくわかる気がします。

メダルの数という“Cult of Olympic-Medals(オリンピックメダルに熱狂する)” ではなく、スポーツ界が社会を豊かにする責任という、明確な価値観と具体的な実行が必要だ。

グウの根も出ない正論とはこのことか。軍事教練(国家のために奉仕する兵士の育成)から、社会を豊かにする人材を育成するという価値観の切り替え。しかし、欧米のようなキリスト教を背景とした社会観や人間観、人生観とは違う「社会」を培ってきた日本人は、表面だけはマネしてもその元になるコンセプトが根付かないのではないか、という難題がありますな。

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